グラデーション[1]






■ミナミ■

「私の見える世界の色?」

 ユリは机に頬杖を付いた。

「そう。今、ユリに見えている世界の色」

 ユリは立ち上がり窓を開けた。冬の冷たい空気が部屋に入ってくる。

「シャボン玉の色」

 後ろを向いたまま答えた。ユリの肩まである長い髪は風によってふわりとなびいている。
 ユリは続けた。

「シャボン玉って透明のように見えるけど実はよく見ると、世の中に存在する全種類の色が交ざっているの。すごくキレイでもあるけど、すごくグロテスクでもあるの。気持ち悪いくらい」

 ユリはまだ後ろを向いたままだ。
 

「どっち?」

「分かっているくせに‥、今まで通り後者だよ。グロテスクの方」

 やっとユリは振り向いた。ユリの表情は、目線が下向きで憂欝な感じだ。それがユリにとっての当たり前の顔でもあった。化粧のしたことのない肌からは、十代のオーラが放たれている分、その目線が印象的に見える。
 まだ窓は開けたままだ。部屋は完全に冷えきってしまった。

「ミナミは?ミナミは何色の世界?」

 僕は嘘を吐いた。

「黒色かな‥」

「ふーん」

 僕に興味があるのかないのか読み取れない。
 でも僕はユリの行動に興味がある。僕はユリを静かに観察する。ユリは実験材料だ。きっとユリにとっても僕は実験材料だろう。
 ユリと同じシャボン玉の色世界を僕は見ている。残酷なまでのグロテスクという色。吐き気を覚える、現実という波。今のユリは[自立神経失調症]で吐いている。
 ユリの手首の何本もの赤い線は、濃いまま。


■ユリ■

「コンコン」

 ドアを叩く音が二回した。彼が来るときはいつも二回ドアを叩く。
 重いドアをゆっくりと開ける。

「やあ」

 薄笑いを浮かべる。私も、彼も。
 彼にとって私は実験台。私にとっても彼は実験台だ。

「どうぞ」

「俺の部屋の広さと変わらないな」

「当たり前でしょ」

 彼はこのマンションの三階に住んでいる。間取りは変わらない。玄関から見て、正面と左側に窓がある。
 短い廊下。私の後ろを静かに歩く。彼の足音は薄く鳴る。
 いつも通り彼は、テレビの上のアヒルのぬいぐるみに手を伸ばす。
 このアヒルのぬいぐるみは小学三年のとき、猪苗代湖へ行って祖母に頼み込んで買ってもらったものだ。買ってもらったとき、とても嬉しくてはしゃいでいたのを覚えている。キンホルダー式になっていて毎日学校へカバンに付けて登校していた。

「綿を出さないで」

 彼はまた綿を出そうとしていた。私の部屋でいつもする行為。
 すでにぬいぐるみには穴が開いていてそこから綿がはみ出ている。何年も前のぬいぐるみなので、色が落ち、汚れも目立つようになっていた。

「口から白い綿を出すアヒルなんて珍しいよ」

 彼はぬいぐるみの口から出た綿を、またその口に戻し始めた。
 クスクスと彼は笑った。

 部屋には無音が鳴る。

 私の聞いた話によると、友達という存在が部屋に来ている場合は、常に会話が途絶えないそうだ。途絶えるときにはお互いがテレビを観ているときや、流行の音楽を聴いているときらしい。
 私も彼も音楽について詳しくないし、好んで聴いたりしない。最低限テレビも見ない。
 彼は影のような存在だ。
 黒くて、いるのかいないのか分からない。それが心地いいのか、薄気味悪いのかさえ分からない。
 予測のつかない、彼の次の行動が気になる。私は彼の様子を視ることを実験だと考えている。
 彼はアヒルのぬいぐるみをテレビの上に戻し、部屋の隅に静かに座る。
 そして彼は予想のつかない黒いセリフを放った。

「ユリの世界は今何色?」

 彼は何も付いていないテレビを見ながら言った。突発的な発言に困惑した。彼の前では動揺した姿を見せたくなかった。返答が遅いと、きっと彼は私を見て薄笑いを浮かべるからだ。それが彼にとって何を意味しているか分からない。常に私を見ていつも楽しんでいるのだ。
 とっさに窓際に置いてあるピンクのシャボン玉の容器が目に入った。

「シャボン玉の色」

 私はそう返答してしまった。
 彼が、何もついていないテレビから私のほうにゆっくり顔を動かした。彼に私の表情から、嘘が読み取られるのが怖かった。私は立ち上がって、窓を開けた。つまり、その行動で彼に背を向けた状態となり、表情を読まれることがないからだ。
 そのまま、私は合理的な返答をした。
 彼はおそらく私の言ったことを信じているに違いない。実際私が見えていた世界と、似ていることを言ったわけであるから。
 静かに振り返った私はそっと彼の手首に目を移した。

 手首の何本もの線は、今日も濃いまま。


続く…↓

 [2]





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