ユリの手首には何本もの赤い線がある。
僕はそれを見るたび落ち着く。自分と同じ人種がここにもう一人存在している、その事実を感じることが出来るからだ。
「シャボン玉のようにグロテスクね」
微笑した。「何?」
ユリは笑った理由を尋ねてきた。首を傾げたときユリの長い髪が頬から少し離れる。「シャボン玉って君の口から出るとはね。不自然だと思って」
「別にいいじゃない」
ユリの部屋には必要最低限の物しか置かれていない。テレビ、ベッド、机。唯一、娯楽として多くの本が置かれている。小説、エッセイ、評論などのジャンルがある。ただ窓際にはシャボン玉の容器が置かれている。この部屋にとって不自然だった。
アヒルのぬいぐるみとシャボン玉の容器。僕はこの二つの物質が異世界から迷い込んだかのような気がして堪らない。それくらい不自然なのだ。
きっと僕の質問に対して、とっさにシャボン玉の容器を見てシャボン玉の色と答えてしまったのだろう。だが、それはこの部屋にある理由ではない。僕はこの部屋にあるこの二つの物質気になる。
この二つの物質を粉々に破壊したら、ユリはどのような反応をとるのだろうか。怒り狂うのだろうか、悲しみ嘆くのだろうか、それとも気にも留めずに平静としているのだろうか。試したい…、いつもその衝動に襲われる。
衝動は性欲に似た部分がある。この衝動は僕にしか持ち合わせていないだろう。
無音が、僕の衝動を引き立てる…。
呼吸が苦しくなる。息を深く吸い、浅くはく。この部屋に来るといつもそうだ。目眩がしてきた。予め用意していたビニール袋をポケットから出し、口に当てる。自分の息を吸い、自分を安定させる方法だ。
ユリを観た。
今日もユリは僕を見てクスクスと笑っている。体育座りをして、黒く長い髪を垂らし微笑んでいる。
「スルピルト、分けようか?」
ユリは微笑みながら語りかけてきた。そしてこれはいつもの台詞でもある。スルピルトとは精神安定剤だ。ユリが服用している薬でもある。ユリも今の僕と同じような発作が出るのだ。
ビニール袋が息により、曇ってきた。僅かに水滴まで混じっている。気分は次第に落ち着いてきた。
「平気」
口からビニール袋を外し深く深呼吸をした。冷たい空気が体に入る。「おつかれ」
ユリは小説を読みながら僕に言った。目線は僕より小説に向けられていた。僕は白い天井を見た。白い天井には一匹の蜘蛛がいた。大きさは大体1センチくらいだ。
「蜘蛛がいる」と僕。
「殺す?」
本から目を離さず言った。ユリの『殺す?』とは、『あなたが殺す?』という意味だ。僕が殺さなければユリが殺す。僕はユリが本から目を離す行為を見たかった。いや、本を読むという行為を中断させたかった。
どのような殺し方をするのか興味があった。
「殺さない」
ユリは僕に目を移す。「ミナミが殺さないなんて、めずらしい」とユリ。
ユリは静かに立ち上がった。静かに動く。僕の目の前で止まった。天井に目を向ける。白い手をゆっくり伸ばす。蜘蛛の足を上手に捕まえた。その姿は、綺麗だった。足掻く蜘蛛。足を捕まれた蜘蛛は無邪気に動く。
僕もユリもその光景を観てしばらく微笑んでいた。今、一つの生物の命が絶たれようとしている。その緊迫感、圧迫感がココロを疼かす。
いったんユリは床に蜘蛛を置いた。必死に逃げようと動く蜘蛛。でも、ユリが長い時間足を持っていたせいで足が半分もげている。不恰好に動く蜘蛛を観ていた。
…僕は、微笑んだまま。
ユリが戻ってきた。手にはちぎったガムテープを持っている。
蜘蛛を逆さにして仰向けの状態にした。そのとき足は遂に切れてしまった。ゆっくりガムテープを近づける。蜘蛛を潰さないように、ゆっくりと貼り付ける。
ユリが考えそうな残酷な殺しかただ。
グネグネと蜘蛛は動くが無駄な抵抗である。今度動けるとしても足が全てちぎれたときだろう。いや、全ての足がちぎれたら動けない。永遠に自分の本能で動くことが出来ない。
ユリはその状態のまま、ガムテープに貼り付けた蜘蛛を窓から捨てた。
外にある人工的な外灯は、ユリの白い顔を映し出す。青白かった。
ユリの息が荒くなっていた。さっきの僕と同じようにユリは発作を起こしていた。
僕は微笑みながら言った。
「スルピルト飲むかい?」
続く…↓[5]