白 い 天 井




 空が落ちそうな夜。 月が近く、星が遠い夜。温い風が、心地よい夜。遠くで犬の鳴き声が響く夜。君が隣にいる夜。 そして、何かが起こりそうな夜。


 誰も公園にいない。風によりブランコは動かされ、錆びた鉄が低くそして高い金切り声をだす。滑り台の近くに捨てられた空き缶は切なく存在を隠すように転がりまわる。何枚もの枯葉が、僕たちの座っているベンチの前を通り抜けたのだろう。空虚という言葉が似合うこの場所は、君によって壊される。

「立脚点さえくれたなら、私が世界を動かしてみよう」

 突発的に発せられた美穂の言葉に困惑した。

「え?」

 僕のその言葉を待っていたかのように、小さな顔は意味深な笑顔になる。

「これはですね、ギリシャの物理学者のアルキメデスさんの言葉です。この人はテコの原理を発見した人なのです」

 小さな顔に飾られた大きな黒ぶち眼鏡を片手で動かす。

 「世界を動かしたいの?」

 夜の闇に紛れて野良猫が僕達の前を平然と音を立てず歩いている。

 「もちろん。私には夢があって、その夢はきっと世界を動かすのだ!」

 大きな声に反応して野良猫が振り替えるが、また平然と歩きだした。 美穂は気付いていない。僕はその野良猫をみながら言った。

 「立脚点なんかあるのかな」

 「あるよ」


 瞬時に答えた美穂は真っ直ぐ僕を見る。僕も見返す。月によって映し出された美穂の目は独特の茶色い瞳に、月の淡い光を浴び魅惑に輝き、すべてを見透かしているような薄い笑みを浮かべていた。その表情は、水溜りに出来た薄い氷に触れるとすぐ壊れてしまうような表情だった。 動けなかった。体を一ミリでも動いてしまうと美穂を壊してしまいそうで。 美穂が一瞬瞬きをしたとき、僕は氷に両手をつく。 美穂を抱き寄せ、キスをした。始めてのキスだった。 唇を離したときの吐息は何度も温い風と絡み合い続けた。いやらしく、そして純粋な液は唇で激しく混じり、今しか創りだせない新しい液混ぜ合わす。 唇を離した美穂は、唇が唾液によって赤く光り呼吸を整えようとしていた。 このとき氷は無残にも朽ち果てた形になったのか。

「あ、私帰るね」

 僕はこのとき美穂の表情を見ようとはしなかった。見てはいけない気がしたのだ。

「うん、また後で」

 走って帰る美穂の後ろ姿は、夜の闇に浸透しながらゆっくり消えていった。


 一年前。大学受験に破れた僕は部屋のベッドに寝て天井を眺めることが多かった。破れたといっても第一希望、第二希望の大学に破れただけで第三希望の大学には入学することができる。だが、その大学で学びたいことは何もなかった。少しは友達はいたが遊ぶ気にならなかったし、気遣ってくれているのかどうか知らないが遊びには誘われなかった。そのせいで、大学が始まるまでの三ヵ月間は天井を眺めてほとんど過ごした。天井を見続け分かったことは、天井は白いということと、その白さは三ヵ月間決して変わらないということだった。


 僕は埼玉に住んでいたが静岡の大学に行くために一人暮らしをすることになった。入学式の一週間前引っ越しをして、通う大学から徒歩約十五分のマンションに決めた。部屋は窓が西と南にあり風通しがいい部屋だ。水色の無地のカーテンを付け、布団とテレビと机を置き出来上がった。最低限必要なものしか置いていないシンプルな部屋は居心地が良かった。だが、ベッドが布団になっただけで天井を眺める癖は変わらなかった。この部屋の天井の白さは、僕の部屋より、密度が濃いことが一週間で分かってしまった。


 入学式の日。体育館は高校の時より小さく、正面にはお馴染みの日の丸が掲げられていて、その隣には学校のマークが入っていた。体育館には千人ほどの生徒が入場しており、だれもが新しいスーツ姿で新鮮に見え、人生の成功者に見えた。 自分も同様に見られていると考えたら、少し微笑してしまった。いや、苦笑というべきだ。そして僕達は、お偉い様方の話を聞き、この大学の校歌を口ずさみ、日本国家を歌わず、無事入学式は終了した。


 徒歩で家に帰る道、田んぼが多いことに気が付いた。来るときはいささか緊張していたのか、見えるはずの景色も見えなかった。ちなみに僕が歩いている道はコンクリートの道路であったが、車が通る気配がなく、車のための標識もなかった。これが、現代のカントリーロードというべき姿なのだろうか。 しばらく行くと、神社があった。だいぶ昔からあったことを感じさせるような、大きな樹木が一本立っていた。時より吹く突風によって葉が激しく揺れる。 まるで僕の生き様を見て甲高く笑っているように見える。悔しさがこみ上げ、神社がある敷地に入り探検することにした。 白い猫が塀で日向ぼっこをしていた。野良猫だろうか。首輪はなく白い毛並みは、薄く汚れる。 近づいたら「ふにゃー!」と鳴き、睨み付けられた。その時、三ヵ月間天井を眺めていた自分が脳裏を横切った。面白くもない行為なのに、親が入ってくるたび、電話がなるたびに不機嫌になっていた自分を思い出した。 「ぐー!」唸り声をだし今も睨みつけている。そうか、お前も自分の空間を大事にしているのだな、と考えてその場を後にした。 アパートに着き、部屋に着き、スーツを着たまま定位置に着き、寝転がる。そこには一週間見続けた天井があった。寝ながらネクタイをとり、ワイシャツとズボンを脱いで、Tシャツとトランクス姿になる。 そのまま背伸びをして布団に沈む。


 翌朝、四時に起きた。どうやら昨日寝るのが早すぎたらしい。昨日の疲れはすっかりとれたが、夕食を食べていないため空腹だった。シャワーを浴び、服を着替えコンビニに出掛けた。 外に出ると太陽がくるくると昇るところだった。太陽が上る瞬間は大嫌いだ。高校一年生から二年生にかけ週末はよく友達の家に大学の近くにあり、同じ道を使う。 コンビ二でツナサンドイッチを買い、来た道を戻った。 途中まで来たら昨日と同じ場所の塀の上に野良猫がいた。こんな朝から日向ぼっこをしているのかと感心した。近づいてみると野良猫はピクと反応して目を覚まし、「ふー!」と昨日と同じように睨む。

「ごめん。そう怒るなよ。今日は昨日のお詫びしに来たんだ」

 コンビニ袋からサンドイッチをだし、少し契って差し出した。 野良猫は睨み付けるのを止め、サンドイッチにカプついた。

「あー!」

 突如、後ろから声がして僕も野良猫も同時にビクッと体を震わせた。

「この猫に餌あげたらダメですよ。いつも私の家の庭で糞をするの」

 そこには小柄で上下白いジャージを着て、首から水色のタオルをかけたショートカットで色白の女の子が立っていた。 そう。これが美穂との出会いだったんだ。

「しかも、シーチキンのサンドイッチ!私の大好物だ。よかったら私にも少しくれません?」

 俯きながら、そして目線を上げながら言った彼女はとても可愛かった。

「どうぞ」

 突発的な出来事になれていない僕は動揺を隠しながら、野良猫にあげたくらい切り取って渡した。

「やったー。ありがとございます。ところで名前なんて言うのですか?」

「俺は、アヒルっていう名前」

「アヒル?絶対嘘だー」

 サンドイッチをくわえながらくすくすと笑う。

「名前っていうのは親が子呼ぶための名前と、友達に呼ばれるための名前が二種類あるって考えてるんだ。でね、俺が友達に呼ばれる名前はアヒル」

 僕もサンドイッチをくわえながら笑って言った。

「じゃあ、私たち出会って五分で友達なんだ・・。私の名前は、美穂。すべての人類から美穂って呼ばれているのだ」

 ピースをして僕に向ける。 野良猫が起き上がり、ゆっくり塀の向こうへ歩きだした。

「あ、行っちゃった。じゃあ俺もそろそろ行こうかな」

「アヒルの家はここから近いのかな?」

「うん、大体十分ってところ」

「じゃあ、今から遊びに行っちゃおうかな」

 でた、俯きながら視線を上げる。これには弱いことが分かった。

「いいよ」

 言うと、美穂は子供のように無邪気に喜んだ。


 家に着くまでの約十分かん色々なことを話した。大学が一緒だったり、野良猫がいた塀越しが美穂の自宅だったり、朝は健康のためほとんど走っているらしかった。話していて、一つ気が付いたのは、普通の女の子とは違う感性を持っているということだった。 ドアの前で鍵をカバンからだし、ドアを開けた。同時に「ピンポーン」というインターホンがなった。美穂の仕業だ。

「えへへ、お邪魔しまーす」

 こそこそと、まるでハムスターが動き回るように僕より先に部屋に入った。 「わー」とか「おー」とかいうセリフを言いながら部屋を動き回り、最終的には布団の上に体育座りして落ち着いた。

「何か飲む?」

「うん。ありがと」

 透明なガラスのコップにオレンジジュースをいれ美穂に渡した。だいぶ喉が渇いていたのか、一気に飲み干した。

「あーお腹いっぱい!」

 背伸びにしてそのまま布団に寝転んだ。

「アヒルは家でいつも何してる?」

 隣に座っていた僕も寝転がって、こう言った。

「こうしてる」

 美穂はクスクスと笑いながら、僕の隣に近づいた。

「天井を見てるんだ」

「うん」

 僕達はしばらく黙って天井を見ていた。僕達は何も話さなかったが、どこかで通じあっている気がした。 このとき僕の空間に入ったのは美穂なのか、美穂の空間に入ったのは僕なのか、今だに分からない。

「ピピピ、ピピピ」

 目覚まし時計の音がなった。どうやらそのまま二度寝をしてしまったらしい。隣にいたはずの美穂はいなかった。そこにはメモが置いてあった。

《おはよ、アヒル。気が付くと寝てるんだもん。目覚ましかけといたから学校遅れないようにしましょう。またねー。》

 雑な字で書いてあったがそれが美穂らしかった。それから学校に行き、授業を受け、新しくできた友と馴れ合いをして家に帰り、一日が終えた。一日、美穂との不思議な空間が忘れられなかった。 まるで、シンデレラが体験した一夜物語のように。


 美穂と出会ってから四日目、大学の授業の『哲学』のクラスに美穂がいた。この日初めて大学で美穂とあった。一番前の席の一番右に一人で座っている。

「久しぶり」

 後ろから声をかけてみた。

「あ、アヒル君だ。久しぶりだね」

 空腹を満たされている子猫のように優しい目をして僕を見た。 このとき、美穂の空間に足を入れたのは僕だった。 今でもはっきり覚えている。

「隣で授業受けてもいいかな?」

「うん、一緒に受けましょう」

「ところでさ何で一人なの?」

「一人でいるときが最高の自由だからだよ」

 堂々と腕組みした姿には、少しの後ろめたさがあったように感じた。

「今週の土曜、天井一緒にまた見よう。土曜日なら寝ちゃっても平気だよ」

「頭いいなー、いいよ」

 僕の心の秒針は加速していった。また、あの空間に行ける、戻れる。今日は確か火曜日だ、あと今日を含め五日待てば‥。


 『哲学』の授業が始まり、教授がアリストテレスについて説明しているがそんな重要な人物より、隣にいる不思議で不可解な人物を分かりたかった。心の指針は美穂によって、少しずつ動かされていた。 『哲学』の授業が終わり、次のお互い違う授業があったのでその教室で別れた。

 果たして一日は二十四時間なのだろうか?全人類にかかわる時間論を否定するほど、僕の心は未来に支配されている。早く、早く時間よ進め。 ビデオテープのように早送りできてしまったらいいのに、いやこの際仮死状態になってもいいから時間の進む感覚を早めたい。

「ピピピ、ピピピ」

 そして今日が四日目の始まり。美穂と会ったのはあの『哲学』の授業きりだ。もともと学部が違うから一緒のクラスになれたのもかなりの偶然だろう。


今日も重いドアを開き、重い足で歩きだした。寝不足で体がだるい。最近では天井を見ても、天井が落ちてくるぐらい低く見える。 シンプルだった部屋もゴミで汚れてしまった。ああ、この苦しみはあと一日で終わるはず。

「プー!!プ!」

 車のクラクションがなった。横断歩道の信号は赤だった。軽くおじぎをして、横断歩道を渡った。もしこの期間が一週間だったら死んでいるかもしれない、半笑いしながらとぼとぼ歩き続けた。他の学生の視線など気にしなかった。その日も長く長い学園生活が終わって家に帰ってきた。 ついに明日だ。


 とりあえず今までたまったゴミを片付けて寝ることにした。 起床昼のニ時。今まで寝れなかった分寝てしまった。起きてからひたすら待った、待ち続けた。何度も外に出て確認し、いつの間にか夜の十ニ時になってしまった。今日は来ないのかと、諦めかけたその瞬間、「ピンポーン」と鳴り響く。寝ていた体を素早くおこし、ドアを開ける。

「ぎりぎりだね」

 腕に付けた時計を見せる。時間は十一時五十八分だった。僕の中で張り詰めていた糸が切れた。安堵感、満足感、により空間は包まれた。そうか、美穂のことが好きなんだ。 薄く笑いながら、「どうぞ」と言い美穂を入れた。

「今日は泊まるから、たくさん話せるね」

「何から話そうか」







 一人、夢から覚めた。目をひらいた。そこにはいつもと変わらない白い天井があった。

 キスをしたあの日、美穂は交通事故で死んだ。

 今でもあの日の記憶が夢の中でループする。

「立脚点さえくれたなら、私が世界を動かしてみよう」

 十年経った今でも、美穂を忘れられない。僕の生きるこの世界は今、美穂に動かされている。