文章「濡れた記憶の中で」






 子供の頃、水を掴むことができないことを不思議だと思った。
 正確にはいうと掴めるのだけれど、原型を留めていてくれない水が、不思議だった。

 そして、そのとき、どこか寂しかったのを覚えている。

 断片的で、霞みそうな記憶の中で、ぽちゃぽちゃと水の音が聞こえてくるようだった。そして映像は、水色。
 映像と、音が、自然に結びつく。心が、流されるような、心地になった。心が流されてしまうのではと、不安でもあった。



 今日、シャワーを浴びていて思い出した。
 幼い日の小さな、記憶。
 あのときの僕は、今、こうして思い出していることを想像していないだろう。実際、そんな些細な出来事を未来で思うなんて、幼いときも考えていなかった。


 無情に記憶が、一方通行する。

 それが不自然に微笑ましく思えた。

 シャワーから出る水は、何本もの線を描いていた。
 純粋に、綺麗に思えた。
 水は壁に打ち当り、水しぶきが目の前を通過する。
 僕は、シャワーの水の線だけをじっと見ていた。止まることのない、線は僕を惑わせる。
 過去の記憶、現実の記憶。交互に交差する。けして、交わることのない、記憶がひたすらぶつかり合う。


 手を伸ばす。
 水の線に。

 幼い日と、同じ感覚で。

 線を大きな手で囲う。そして、綿を掴むように、優しく握る。ゆっくり、さり気なく、隠れすように。
 水しぶきが手に、当る。
 拳になったとき、それに気づく。

 掴めなかった。

 もう一度。

 掴めない。


 過去の感情は、寂しい。
 現在の感情は、悔しい。

 これが大人になったことなのか?
 自答する。そして、水の線をただひたすらに、力強く握る。
 握れないということを知った瞬間、乱暴に、狂気に目覚めたように、何度も、試みる。

 寂しさを求め、て。



 現在がスローモーションした。

 人は水から生まれた。
 人の感情なんて、こんなものかもしれない。
 水と同じのように、掴むことはできない。
 容易に、変化する。形を変えて、変化する。それは、終わりをしらない。
 だから、人の感情を掴むことは出来ないだろう。でも、その感情に、変化する感情にさえ、僕は触れることができる。
 時には冷たく、ときには熱く。変化は綿にも、針にもなる。

 でも触れられる。

 触れてみようと思う。いつだって、水のような感情を全身で浴びることが出来る。鋼鉄の心でもいい。いつかは、錆びる。
 オルゴールのような音を、金切り声のような音を、全身で浴びてみよう。



 気がついたとき。
 根拠はないけれど、今も出続けている、水の線をつかめる気がした。

 試してみる。

 手に水が当った。掴めなかった。

 少し苦笑した。

 その苦笑は、寂しいという感情からでたものだった。



 そのとき、過去の僕が、笑っている気がした。
 一方通行の中に見えた水色の小さな景色だった。


 





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