「平和な世の中を、見つけにいこう!」
私はビルの屋上で自分でもよくわからないことを叫んでいた。目の前には、茶色の髪の毛をした女がいる。歳はだいたい20代前半あたりだろう。あと一歩踏みだすと、この10階立てのビルから落ちる。つまり、この名前の知らない女は自殺という手段を選ぶ人生の真っ只中にいた。
「生きていけば、いいことがある!」
偽善者な私は、言葉など何度でも出る。もちろんこのような状況は初めての体験だ。なぜこんな状況になっているのかというと、残業が終わりタバコで一服しようと屋上に来たのだ。屋上の扉を開くとそこには、フェンスを乗り越えた女がいた。残業の会社の屋上には、当たり前だが誰もいない。
「何があったかわからないけど、おじさんに話してみろ!」
約30分間は、ここで叫び続けいる。女は一度も私のほうを向かない。女は空に浮かび上がっている夜空にくっきり浮かんだ大きな満月を見ている。吸いこめられそうな満月は、女を呼んでいるようにも思えるほど大きかった。女は黒いワンピースを着ていて、夜の闇に交じっている。それに引き換え、私はYシャツとスーツのズボンである。夜の闇は私を避けるようにも思える。それに引き換え、夜の風、月、闇、全てのものが彼女を飛び降りさせようと誘導しているようにさえ感じる。「さあ、こっちにおいで!」
夏なのに冷たい風が肌を、ナイフのように刺す。半そでのYシャツを着ているので、肌が痛い。鳥肌が鈍く立つ感覚があった。なぜ夏の夜にこのような風が吹くのか…。不自然だった。
「あなたは、どうして死なないの?」
女は初めて口を開いた。意外に低い声だ。私は、その率直過ぎるセリフは胸を鋭いナイフで刺された衝撃に襲われた。生きる意味?
それでも私は、偽善的な意見を言う。
「生きたいから、希望があるから生きるんだ!」
「はは」
女は軽く笑った。まさに、冷笑だ。
「私はね、生きたくないし、希望がないから死ぬの」
冷たく強い風に、女の髪が淫らになびく。私は、その風に女が押されないか心配だった。何せ、生と死の境界線に女は立っているのだから…。真逆な事を言われても僕は負けず必死に言った。
「じゃあ、私と一緒に希望を探そう!」
私はすでに35歳だが結婚していない。もしかすると、この自殺しそうな女に運命的なものを感じていたのかもしれない。結婚相手など、この歳になれば誰でもよかったというのが本音だ。そう、偽善者は裏がある。「希望って何?」
私はその質問には戸惑ってしまった。今まで、良い中学、良い高校、良い大学、そして今は一流企業の副社長。噂では来年にでも、社長の地位につくことが出来るとも囁かれている。エスカレータ式に上がってきた私には、希望なんて言葉には縁が無かった。「希望」などという言葉は凡人が使う言葉として感じていた。一種の差別的背景があったのだ。「希望は、誰にでも持っている心の安らぎさ!」
これは殺し文句だった。「希望」という本当の意味を知らない私はこんな言葉しか浮かばなかった。ただ私の中に、結婚願望という考えが頭に浮かんで無意識に「心の安らぎ」などという言葉に出てしまった。我ながら、情けない。「はは」
またしても女に冷笑された。まあ、しかたない。「あなたって面白いこというのね」と女。
「何が面白いのかな?」と私。
「心の安らぎだなんて」と女は続ける。
「ああ」と私も続ける。
「アルワケナイじゃん、あなたいいね。もっとこっち来て話そう」
そういえば、かなり距離を置いて話していた。このような状況は距離を置いたほうが無難だと、テレビや本で知識を得ている。誘われた場合は解からなかった。私は迷った。近づくことによって、女に刺激を与えてしまうのではないか…、と。「早く来ないと、飛ぶよ」
女はそう言った。もう選択の余地など無かった。僕と女の間にフェンスが隔てている。
「私の顔、見たい?見せてあげるよ」
女は一瞬で振り向く。赤い痣があった。赤い痣…?火傷のようなものだった。「火傷だよ、昨日お父さんにつけられたの。熱湯をかけられた」
そういって女は、目から一滴の涙が流れた。ロマンチストな僕は、心を奪われてしまった。この女、助けたい。偽善者という肩書きを捨てて、接することができたらどんなにいいことか。
「こっち来てよ」
次々に涙を流す女は、フェンスにしがみ付き私に訴える。「…わかった、今行く」
私は、フェンスを夢中に登った。子供のように純粋であり、だが大人の欲望に負けていた。顔の火傷など、どうでもよかった。顔はそれなりに整っていたし、結婚するには持ってこいの相手だった。「ありがとう。もう人のこと信用出来なかったけど、今なら少し信用出来るよ」
私は、嬉しかった。真夜中の満月に私も飲み込まれそうだった。このまま一緒に吸い込まれてもいいように思えた。今まで偽ってきた肩書きを捨てて、純粋な自分として。この経験の中で自分が変われると、どこかで確信していたようにも思える。冷たい風がまだ吹いている。もうそんなことはどうでもよくなっていた。この女と一つになりたい、そう思った。
「ねえ、抱きついていい?」
「ああ」
この女も家庭で何か問題があって、誰かに甘えていたいのだろう。「後ろ、向いて…」
何の疑問も無く後ろを向いた。優しくわきに、細い腕がまわりこんで来る。さっきまで叫んでいたせいでYシャツは汗だくだった。それに気が付いた女は私に言った。「暑いなら脱いでいいよ。こんな夜中だから見られても分からないよ」
女は、落ち着いた声で私に言った。「わかった」
Yシャツを脱ぐ。そしてYシャツを女に渡した。「今日の月、大きいね」抱きしめながら女が後ろで囁いた。
「そうだね、私もこんな大きな月みるのは久しぶりかな」
「最後に見れてよかったね」と、女は確かに言った。
どんっ。
女に背後を押された。「え!」声が思わず出た。ここは10階…。もう落ちる以外に選択の余地が無かった。最後に女を見る。
女は私の持っていたYシャツの汗が染み付いた部分で火傷のあとをなぞる。火傷のあとはキレイに消えた…。私は騙されたのだ。
「ははは!」
女は笑っている。黒いワンピースがひらひら揺れていた。「ふふ」何秒後か、死を受け止めた私は笑いがでできた。でも唇が震える…。
一流企業のガラスは鏡版になっていて、残酷なまでにクッキリと落ちる自分の姿が映し出されている。女の笑い声がまだ聞こえるようだった。落ちる速さは、意外に遅く感じた。
私は何だったのだろう。名も知らない女を助けようとして、最後には突き飛ばされて殺される。確かに人生に、安らげる場所なんてないな、と考えた。
そして意識が飛んだ。
女は軽々とフェンスを乗り越え、バックから携帯電話を出した。
「例の件、終了しましたから。口座にお金振り込んでおいてください」
「ああ、今回もうまくいったか?」
「ええ、おかげさまで。残業のあとタバコを吸いに屋上に来るという心理、よく読みとれましたね。押すときにYシャツで押したので指紋など残っていません。もちろんフェンスを登る際は常に、手袋をしていたので指紋は発見できないでしょう。あとはYシャツを処分するだけです」
「よくやってくれた」
「それが私の仕事ですから」
「あいつは、最近調子がよすぎた…」
「あ、私情なんて意味がないので切りますね。私は間接的に依頼されただけですから」
「…ああ」
ふー、殺し屋も楽ではない…。女は呟いた。世の中に安らぎ?そんなのあるわけ無い。手に残ったYシャツを見ながら女は思った。
ビルの下では夜中だというのに、妙にざわついている。